今日が最後のつもりで
何かの「最後」はいつ誰にでも起こりうることです。それが必ずしも自分の人生の最後ではなくても、誰かと会うのは結果的にあの日が最後だったな、とか、まさか昨日できていたことが今日からはできなくなるなんて、とか。そうやって大抵の場合「最後」は後になってから知ることが多い。そして誰もが、いつか必ず人生最後のときを迎えます。
「今日が人生最後の一日のつもりで」
「今週末がホタルカフェ最後の営業のつもりで」
大抵の場合「それくらいのつもりでやる」という例えの表現ではあるけど、実際に最後になる可能性はゼロではないから、本当にそのつもりで行動できるにこしたことはないです。ただそれが余程現実味を帯びたことでない限り、頭の中で考えているだけでは、本当にそのつもりで行動するのはやっぱり難しい。
じゃあ、差し迫った問題もなく、命の危険にさらされているわけでもなく、どうしても今やり遂げなければならない何かを抱えているわけでもない、このぼくにできることは何だろうか。そんな自分にとって、今日一日を最後だと思って大切に過ごす、というのはどういう意味を持つのだろうか。
ホタルカフェで家族とともに働き、大切な友人たちに恵まれ、たくさんのお客様とお会いすることができて、その意味がおぼろげながら見えてきた気がしています。
限りある出会いを大切に、思いやりを持って、今そのとき自分が相対している人に感謝すること。源氏ボタルが舞う、この豊かな自然に敬意を持ち続けること。自分のことをわかって欲しいと言う前に、まずは相手を尊重すること。目先の利益や自分勝手な欲求を満たすことではなく、少し先のよりよい世の中を想像すること。
誰かの笑顔も眼差しも、オオイヌノフグリの小さな青い花も、田んぼに舞い降りる白鷺も、楽しいときも、悲しいときも、日常のどんなに些細なことも、この人生のどんな瞬間を切り取ったとしても、世界はきっとそのままで美しいのだと思う。だから毎日胸いっぱいに美味しい空気を吸い込んで、人生の一瞬一瞬を少しでも楽しめるほうが良い。
「人生最後のときに後悔しないように」って、そのときのために準備をしておく、という考え方はぼくにはしっくりこないけど、いつのときも自分の胸の中を穏やかな空気で満たす努力をしながら、最後かもしれない一日を大切に積み重ねていくことならできる。
なんて、今はもっともらしいことを考えていられるけど、いざ人生最後のときを迎えたら、恥ずかしいくらいに取り乱してしまったりして。それも最後になればわかりますね!
そういう心持ちで常に過ごすというのは、なかなか難しいことですよね。でも、自分をしっかり生きるには必要な心構えと思います。いま出来ることをひとつずつ、丁寧に日々を過ごすことを心がけている私です。
いつも美味しいコーヒーと居心地のいい空間をありがとうございます(・ω・)ノ
hotaru cafeさんに出掛けると、おもてなし上手なスタッフの皆さんから、窓からのぞむ自然から、いつもたくさんの刺激をいただいています。
お店でのんびり過ごしていると、日常生活で凝り固まったこころが、ゆっくり解れていくのを感じます。あまりの居心地のよさに、つい長居してしまうことも。。。
素敵な空間と時間を、ありがとうございます。
村木さま、コメントありがとうございます。お返事が遅れてしまったこと、本当に申し訳ございません。
そうですね、誰かに対したとき、何かの出来事に直面したとき、そのときになって意識しようと思っても難しいことがたくさんあると思っています。だから心のゆとりがあるときに、いつも「こういう心構えでいよう」と言い聞かせつつ、こうして文章にすることであらためて自分で確認をしたりもします。
丁寧に日々を過ごすこと、とても大切ですよね。一日の大半はルーティンワークで、だからつまり人生の大半は繰り返しなのだと思います。丁寧に過ごしていると、その繰り返しの中にこそ、かけがえのないものや新たな発見がある、ぼくはそう信じています。
雨を待つサカナさま、コメントありがとうございます。お返事が遅くなってしまい、本当に申し訳ございません。
ホタルカフェの窓から見える自然の風景には、いつもここで暮らしているぼくですらこころが癒されます。お休みの貴重な時間をホタルカフェで過ごしてくださるお客様が、できるだけ穏やかに、リラックスできるような空気を壊すことのないよう、これからも心がけていきたいと思います。